どうして大都市住民はエゴイストで独裁的な反知性主義者を知事や市長に選ぶのか について
都知事選、東京の話なので関西ではあまり話題になりませんが、どうして大都市住民はエゴイストで独裁的な反知性主義者を知事や市長に選ぶのか。もしかすると有権者たちはそういう人たちに行政を委ねると「自分たちがより幸福になる」と考えて投票しているのではないかも知れません。
曰く、
・選挙民は自らの都合・欲望の実現速度の高さで選ぶ → 独裁的な人が選ばれやすい
的な話。
うーん、
「エゴイストで独裁的な反知性主義者」。
これは「自分にとって気に食わない」の言い換えにすぎないと思うけどなぁ。
たとえば単純な経済/福祉の政策で、
弱者厚遇でも強者厚遇でも、反対側から見ればそれを自分を無視して行うのは
エゴイスティックだろうし、独裁的だろうし、反知性的にも見えるだろう。
「エゴイスティックでも独裁的でもない政治」ってのがあるとしたら、
それは要するにコミュニティの了解が取れる政治なわけだけど、それって
・「コミュニティが小さい」とか
・「行政と別軸で了解が取れる(=いわゆる地元の空気読み)」
でしか取れないわけで。
社会に対して個人の独立性が高い大都市では、ある決断が独裁的で民衆の意思を無視しているように見えることが頻発するのは当たり前の話な気がする。
コミュニティが小さいと「コミュニティ全体の了解が取れる」、ってのは、「全員一致する」って意味ではなくて、「反対意見サイドであっても”まあそれはそれでコミュニティの選択ならしょうがないか”って納得を形成しやすい」という意味。
例えば小さな村で夏祭りやるかどうかだったらやるかやらないかでコミュニティ全体の了解は取れる。
なぜならあらゆる判断が生活への直結度高めだから。
村の夏祭りやるやらないで、自分がやらない派だとしても「やる派の隣の山田さんと険悪になって年末の餅つきのときに困る」とかに結びつくので、「まあそのへんも考えるとしょうがないか、納得しとこ」というとこに落ち着きやすい。
翻って、
大都市で万博やります!経済効果ウン千億円!
つっても多くの人にとっては「で、それで今のバイトの時給上がるんか?」って話でマジで無関係だし。
あるいは広告代理店とか儲かる人は直接的にすんげー儲かるわけだし。
そらまあ税金使われて気分悪い人は永遠にあら捜ししてSNSで文句言い続けるだろうし、
逆に仕事のビッグプロジェクトとしてやってる人間からしたらそんな文句にいちいち構うメリットないよね。
つまり大都市では(社会構造として)コミュニティに対する個人の独立性が高いので、行政判断に対する利害享受もまちまちであり、
ある行政判断について「絶対賛成」の人も「絶対反対」の人も互いに関係性が全くないので、そりゃ「片方の意見だけ取り上げて反対側の意見は無視された!=独裁的だ!反知性的だ!」って映りやすくなるわけ。
ひらたく言えば独裁政権に無視されてるんじゃなくて、都市住民には反対側の意見の人の存在が(自分に無関係すぎて)見えてないだけなんだよ。
大都市で「ほとんどの人にとって独裁的でない政治」なんてのは、
都民全員が「one for 東京都、東京都 for one」みたいな認識もってるときにしか成立しないけど、経済や社会の構造としてそんなん明らかに無理だよね。個人の生活上の利害スケールと行政の判断スケールに差がありすぎる。
戦時とか国家総動員みたいな感じで「あらゆる判断が個人の生活に直結するような認識の状況」だったら誰も独裁的だと批判しない政治ができるかもしれないが、そう思わせることこそちょび髭おじさんがやったことであり本当の独裁だろう。
東京にせよ大阪にせよ、大都市圏で首長に立っている人に対する批判を唱える人が人数として多いのは理解できるが、
これを首長の性質、あるいは選挙民の思考回路の問題に落とし込むのはそれこそすげー反知性的な見方に思える。
(だって、自分の考える最善じゃない選択をする人が「反知性的だ」ってのは、裏を返せば「ちゃんと考えれば全員がぜったい自分と同じ意見になるはずだ」っていう超浅はかな見方だからだ。これを反知性と言わずしてなんという。)
単純に考えて、大都市とそうでない場所で何が一番違うって、「属している共同体のデカさ」だろ。
それが第一要因になるのが普通で、そこガン無視で「きっと大都市の住民はこういう性質があって~ 首長になる人はこういう性格で~」って論理展開が行われるのは正直意味ワカメである。
小池さんでも吉村さんでもいいが、
彼らを「独裁的だ」という人(わりと僕もそう思う)は、彼らのあらゆる選択が自分の思い通りだったら、
それでも「独裁的だ」というのだろうか?
そうでない選択を望む人たちが「独裁的だ」と言わないのだろうか?
というとどっちもNoだと思う。